写真とコトバの練習帳

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祖父から聞いた、戦争の話

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現在のJRのそのまた前身である「運輸通信省」に昭和19年に入り、戦時中も鉄道員として従事していた祖父。年齢的に戦争経験者だと知ってはいたものの、詳しく戦争の話を聞いたのは初めてのことでした。兵隊として戦争には参加していませんが、どんな状況であっても鉄道を時間通りに動かすというその責任感が、今の祖父につながっているのだなと改めて感じました。

どうやって戦争が始まったと知ったの?

戦争が始まったのは昭和16年12月8日のこと。後輩の兄貴が(※)「スーパー5級」というラジオを組み立てていて譲ってもらったものでよく聞いていてね。青年学校に行く前に、日本が米兵に宣戦布告したというのをラジオで聞いて知ったよ。

日本が戦争に負けるわけがないから、何とも思わなかったけれどね。当時は「米兵が日本に勝ったなら死んだ魚が動き出す。枯れ木に花が咲く」という替え歌も流行ったんだよ。

その時は天皇陛下は『現人神(あらひとがみ)』といって、神様だった。昔は、各小学校の奉安殿というところに写真が保管してあってね。祭日には校長先生がそこから写真を持って来て『教育勅語』を読んでいたよ。戦争中に鹿児島に来たこともあって見たくてたまらなかったけれど、最敬礼をしていて見られなかった。それが当然だったけれど、今思えばおかしな時代だったなあと思う部分もあるねえ。今の人には思いもよらないようなことだろうねえ。

※スーパー5級:正しくは『5級スーパー』。真空管ラジオのこと。

いざ戦争が始まってからはどんな生活だったの?

昭和18年はそうでもなかったけれど、昭和19年に入ってからは苦しかったね。ものは買えないし、米を作っても食べられない。早く日本が勝って戦争が終わればなあ、とずっと思っていたよ。常に日本が優勢で絶対に負けない、と政府に思い込まされていたよ。負けそうになったら、神風が吹いて敵は降参すると言われていたしね。

けれど、戦時中の食生活は、いつもひもじくてたまらなかった。鉄道員は(※)特別加配米がもらえたから、あれでずいぶん助かったね。軍用列車を遅らせるわけにいかないから、常に気を張らなければいけなかったけれど。時には空襲で線路がやられて、予定の乗務員が戻って来られないこともある。いつ次の乗務をさせられるか、わからない状態なんだよ。乗務を終えて駅に戻ってきたら木の札が置いてあって、6時間経過後すぐ次の乗務を命じられていたね。

「鹿児島」駅の一つ手前の「竜ヶ水」駅が攻撃されて不通になり、「重富」駅から動けなくなったことがあった。その時は北海道から常駐していた兵隊が乾燥にしんがたくさんあるから、とすすめてくれてね。それを蒸気機関車の火で炙って、炊いた加配米と一緒に食べたこともあったよ。

終戦直前には、その特別加配米も少なくてね。寮での食生活はとにかくひもじかった。米粒は探さないとないほどのものに、『ふすま』を入れて炊いて食べていたよ。それと寮長が海で水をくんでそれを沸かして、摘んだ庭の新芽を入れてね。とにかく食べるものがなかったんだ。

昭和17年に2月に「食料管理法」が制定され、国民は政府の指示する量の食糧しか買うことができなくなった。妊産婦、特殊な仕事に従事する者には、特別配給があった。

徴兵検査は受けたの?

徴兵検査を受けたのは、昭和20年。20歳になったら受ける決まりでね。近所の人は既に志願で兵隊に行っていたよ。少年航空隊は15、16歳で志願していたね。兵隊に行けば生活費はかからず、給料がもらえるから。兵隊の暮らしは裕福だったけれど、人々の暮らしは厳しかったね。兵隊たちは(※)「七つボタンは桜に錨」と歌って行進していたなあ。

検査には、甲種合格、第一予備役、第二予備役などがあって、甲種合格から順に召集令状で呼び出されていたよ。召集令状は、赤い紙に何月何日にどこに入隊と書かれていたな。俺は機関車の乗務があったから、兵役は免除されて軍属配属。戦争中は、陸軍の一部の鉄道連隊が千葉から鹿児島にやってきてね。軍服を着た兵隊が列車を運転していたんだよ。甲種合格で合格した列車運転士は、鉄道連隊に一度入隊してそこからどこに行くか割り当てられてね。その鉄道連隊の兵隊に、運転の仕方を教えたこともあったな。兵隊は線路を知らないから、地元の機関助手を乗せていたんだ。

中には、ビルマやフィリピン、インドネシアなんかに行って鉄道員をしていた人もいたな。志免炭鉱に行って炭鉱を掘っていた者もいたし。

昭和18年の軍歌。「若鷲の歌」の歌詞の一部。

空襲にあったときのことを教えて

昭和19年に鹿児島の空襲があったときは、(※)グラマンが低空で飛んできて機銃掃射で撃たれたことがあったな。それとB29が油脂焼夷弾というのを落としてね。それが川に落ちたら、燃えながら流れるんだよ。火が燃え移っている人もたくさんいた。そのすべてを防空壕の中から見ていたんだよ。空襲がおさまったあとはひどい有様だった。他にも、1トン爆弾が落とされたこともあったね。その時は「鹿児島」駅構内にいた人はみんな倒れていたよ。「苦しい。助けてくれ。」と言われても何もできなかった。

亡くなった者はトラックに投げ込まれてどこかに運ばれていたし、生きているものは線路のバラス(砂利)の上に並べられていた。あの時の兵隊たちは本当にかわいそうだったね。一度、日豊線からの到着列車と鹿児島本線の出発前列車が駅に停車しているときに、「鹿児島」駅が機銃掃射でやられたことがあった。あの時の「鹿児島」駅は負傷者でごったがえしていたよ。その日の夜は「鹿児島」から「出水」までの乗務だったんだけど、列車が動かないから、コック回しと石炭をくべる片手ショベルを持って「西鹿児島」駅まで歩いて行って、乗務したよ。

空襲が始まって防空壕まで逃げている最中に、危うく大けがをしそうになったこともあったよ。防空壕までが遠くてあまりにも機銃がひどいもんだから、「鹿児島」駅の裏の山の上にある多賀神社に一旦避難したんだ。偶然そこにいた兵隊と、階段で肩を並べた。あまりにも機銃がひどくて、目と耳をふさいで神社の階段に這っていたんだ。おさまったら防空壕に行こうと身を潜めていたら、その時近くの川に1トン爆弾が落ちてね。その衝撃で大きな岩が階段に落ちて、俺の真横にいた兵隊の背中の上に落ちたんだ。あまりにもすごい衝撃で、兵隊も俺も階段から転げ落ちた程だよ。俺は防空壕に行くためすぐに立ち上がろうとするんだけど、兵隊がズボンを握って離さなくてね。負傷して動けないから、代わりに鉄兜と剣を防空壕内の代用本部に届けてくれと言うんだ。そんなことより早く防空壕に行きたいからと困っていると、別の兵隊が来て俺を逃がしてくれた。その日の夕方6時前に、その兵隊は亡くなったと聞いたよ。その日は8月で、まだ明るかったなあ。

日豊線の帰りの乗務で、霧島神宮の近くにに来たときに空襲機でやられかけたこともあるよ。あそこは線路が下り坂だったから、急いで隧道(トンネル)に突っ込んだんだ。後で見たら、霧島神宮が機銃でやられてひどい有様でね。20/1000(20‰)下り勾配で加減弁満開でつっこんだから間に合った。あと30秒遅かったら助かってなかったよ。しかし、あの早さで突っ込んでよく脱線しなかったなと思うね。攻撃されたのは、停車中の回送列車を軍用列車だと勘違いして、偶然通りかかった俺の列車もやられたらしい。後で見たら直接あたったところは穴が開いていたよ。あのときの薬莢をいくつか持って帰ったんだけど、どこにいったかなあ。

グラマン:アメリカの航空機メーカー。大戦中、日本ではグラマンは米国戦闘機・憎き敵機としての代名詞として呼ばれていた。

戦争が終わったと知ったのはどうやって?

8月15日は公休で串木野に帰省中でね。飛行機がまく大量のビラを見て戦争が終わったと知ったんだよ。わかった途端、急いで「串木野」駅に行った。早く「鹿児島」駅に行かないと、と思ってね。だけど列車の時間はめちゃくちゃで、時間通りになんて来ない。どうしようかと困っていたら、単行機関車(蒸気機関車の先頭部分)がちょうど来てね。その運転士も「戦争が終わったから、列車を引かずに単行で行けと言われた」と言うんだ。俺は「鹿児島」駅まで行きたかったから事情を話して、特別にそこに乗って駅まで向かったよ。

その日は「鹿児島」駅を6時23分に出て「川内」駅までの乗務だったんだけれど、何もかも混乱していてね。「鹿児島」駅を夜の9時半発の102列車という「門司港」駅まで来る夜行列車を運転して、あとは全て取り消すと指令から連絡があった。みんな逃げていて誰もいないから、予定とは違うけれど乗務してくれと言われて。結局誰も来なかったから、その列車に乗務することになって待機させられたよ。その日の晩御飯はおにぎりと漬物だったな。それを食べてから、乗務したよ。やってきた列車を見たら発電機が故障して壊れていて、別の客車の洗面所の鏡を持ってきて中を開けて映しながら運転したなあ。それが終戦日の夜のことだね。

戦争後の様子は

戦争が終わって一週間ほどは『無政府状態』といって警察が機能しなくなったんだ。何をしようが誰もとがめる者はいない。たくさんの軍用列車が駅に停車していたから、みんな色んなものを持って行っていたよ。貨車には靴下、洋服、皮の長靴、軍服なんかが入っていたから、常に人でごった返していた。俺たちは食べ物にしか興味がなかったけれど、大人は物を持って行って闇市で売って儲けた者も多かったという話だね。

その時は、金平糖の入った乾パンや、玄米を一升瓶でついて白米にしたものなんかを食べていたよ。相変わらずひもじい生活は続いていたね。

終戦後は炭鉱の景気がとてもよかった。戦争で油がなくなって、代わりに炭鉱を使っていたから。同僚の中にも、炭鉱の仕事に転職した者も多かったよ。生活費は全部面倒をみてくれるし、給料もすごくよかったからね。俺も行こうかなと思ったけれど、行かなくて正解だったな。

戦時中は採用試験に受かりさえすれば機関士になれていたんだけれど、戦後は再教育を受けることに。3か月後に機関士科に行く予定だったんだけど、終戦後は規則が変わってね。戦後は朝鮮鉄道は内地の鉄道と一緒になったし、満鉄からは経歴を半分にして帰ってきた者もいて、鉄道職員が60万人もいたんだよ。おかげで早く機関士科に行きたかったんだけど、入れてもらえなくてね。機関士も機関助手も動力車になった時に給料が同じになったから、それはよかったけどね。

まとめ

「今ある一番すごいものは何だと思う?」との質問に、「俺たちは時速80キロで走っていたのに、今の列車は時速300キロで走るなんて信じられない時代になった。」と。

祖父は、社内でも成績優秀だったそうで新幹線が開業するときに運転士に誘われたそうです。しかし、左耳が悪くそれをかばいながら運転していたために、その悪化を恐れて断ったのだとか。

当たり前のように新幹線の走っている私たちにとって、戦争は遠い過去のことのように思えます。時を経るにつれて、戦争体験者もそれを語り継ぐ方も少なくなってきています。その上で、戦時中の話を祖父から聞いたことは貴重な経験になりました。いつかこの世から戦争がなくなり、平和な世界になりますように。そのために戦争を知ることは大切なことです。どうかこれが、読んでいただいた方の戦争と向き合う機会になりますように。

最後になりますが、情報の正誤性についてお詫び申し上げます。可能な限り調べたものの過去のことであり、正しい情報なのかわからない部分があります。祖父にとってはおよそ70年前の出来事で、思い違いや勘違いが多くあると思います。確実に正しい情報だけを掲載すると、大幅に削除してしまうことになるため、このまま掲載させて頂くことにしました。どうかご了承いただけますよう、お願い申し上げます。

 

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写真は若かりし日の制服姿の祖父。