写真とコトバの練習帳

日々をつづる、メモブログ。

水玉模様でいっぱいの石浦神社がかわいかった

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石浦神社は、石川県にある金沢市にある神社です。これまで見たことのないくらいかわいいお守りがあり、公式キャラクターがとっても愛らしかったので、ご紹介します。

 

石浦神社は由緒正しき神社

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 石浦神社は金沢市で最古の神社。明治維新神仏分離令により、明治元年の12月に氏子地の石浦の郷名をとって「石浦神社」と改称しました。同時に下本多町から広坂通り112番地の現住所に移転しました。

 

ご利益は?

 石浦神社には7つの大神様が鎮座されています。それぞれの神様からは、縁結び・家内安全、厄除・八方・安産、仲執り・結び、制度・法律・刑法、知恵、外難防禦、というご利益を受けられます。

 

おみくじも

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石浦神社のおみくじはちょっと変わっています。一番運勢のいいものは「福福福」、その逆は「凶」で、全15段階に分かれています。「福福福」の出る確率は1/1000、「凶」は1/2000。確立が具体的に書かれていると、少しどきどきしますね。

 

ちなみに私は1/300の大大吉をひきましたよ!

 

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お守りに注目

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こんなにかわいいお守りは見たことない!というほどのお守りが並んでいました。とにかくそのお守りは、水玉模様で埋め尽くされているのです。一種類だけでなく、何種類も。この水玉は、「すべて丸くおさまりますように」という思いで水玉模様があしらわれているのです。

お守りを購入する際に入れてもらう紙袋は、5種類から選べます。この中に石上大神社の石を入れてもらえます。

 

水玉模様と鳥居のハートがかわいい神社

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鳥居には2つのハートが見えます。

 

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私が行った日は、偶然節分の前日で豆まきが行われており、そこにきまるちゃんがいました。いつもいるとは限らないので、運がよければきまるちゃんに会えるかもしれません。

エバー航空のチャイルドミールはこれ!

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飛行機に乗る際に、機内で配られる機内食。これを年齢に関わらずチャイルドミールに変更できます。エバー航空のチャイルドミールは、バッドバツマルのパッケージに入れられて出てきます。かわいいパッケージの中のチャイルドミールはどんなメニューなのでしょうか。

チャイルドミールを食べるためには

チャイルドミールを食べるには、搭乗する24時間前までに予約しておく必要があります。エバー航空の公式サイトのオンラインメニューから選ぶだけで完了します。忘れずに予約しておきましょう。なお、2歳から5歳が対象となっていますが、大人も注文できるのでご安心を。

何度も確認

空港でのチェックイン時、また機内に搭乗してからも、キッズミールを注文していることを確認されます。キッズミールは予約者のみなので、座席を替わる場合は教えてほしいと伝えられます。

チャイルドミールの登場!

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キッズミールは、通常の機内食が配られる前に配られます。

 

これがチャイルドミール!いつも遠目で見ていたので、どんなメニューなのかとても気になっていました。

これが実際に配られたキッズミール。かわいいパッケージでしょう。「DON'T TOUCH MY MEAL!」は「俺のメシにさわんな!」というところでしょうか。

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パッケージには仲間たちの顔も。

 

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この日のメニューは、フルーツの盛り合わせ、フルーツタルト、ファラフェルパスタのトマトソースのチェダーチーズとレーズン添え。

 

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メインはチキンのトマト煮に、付け合せはいんげん、人参、ポテトです。

それにパックのりんごジュースとお菓子がついています。 

キッズミールの気になる感想は?

 ご覧の通り、メニューはとても豪華。正直、2歳から5歳の子供が食べられるようなボリュームではないです。メニューも子供向きではなく、味付けも大人向けのしっかりした味付けでした。

 

個人的にはまた頼みたい

子供向けではないのでは?と思う反面、大人が十分に楽しめる味でした。チャイルドミールを頼んだからといってビールは飲めないということはありません。機内でチャイルドミールを食べながら、台湾ビールを飲むことももちろんできます。一度、チャイルドミールを予約してみてはいかがですか? 

ちなみに

こちらがこの日の通常の機内食です。

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ポーク、酢の物、ケーキ、りんごジュースです。

 

バッドばつ丸」搭乗記はこちら

monokakiko.hatenablog.com

祖父から聞いた、戦争の話<後編>

前編はこちら

 

(私)戦争が終わったと知ったのはどうやって?


(祖父)8月15日は公休で串木野に帰省中でね。飛行機がまく大量のビラを見て戦争が終わったと知ったんだよ。わかった途端、急いで「串木野」駅に行った。早く「鹿児島」駅に行かないと、と思ってね。

 

だけど列車の時間はめちゃくちゃで、時間通りになんて来ない。どうしようかと困っていたら、単行機関車(蒸気機関車の先頭部分)がちょうど来てね。その運転士は「戦争が終わったから、列車を引かずに単行で行けと言われた」と言うんだ。俺は「鹿児島」駅まで行きたかったから事情を話して、特別にそこに乗って「鹿児島」駅まで向かったよ。

その日は「鹿児島」駅を6時23分に出て「川内」駅までの乗務だったんだけれど、何もかも混乱していてね。「鹿児島」駅を夜の9時半発の102列車という「門司港」駅まで来る夜行列車を運転して、あとは全て取り消すと指令から連絡があった。

 

みんな逃げていて誰もいないから、予定とは違うけれど乗務してくれと言われて。結局誰も来なかったから、その列車に乗務することになって待機させられたよ。

 

その日の晩御飯はおにぎりと漬物だったな。それを食べてから、乗務したよ。やってきた列車を見たら発電機が故障して壊れていて、別の客車の洗面所の鏡を持ってきて中を開けて映しながら運転したなあ。それが終戦日の夜のことだね。



(私)戦争後の様子はどうだったの?

 

(祖父)戦争が終わって一週間ほどは『無政府状態』といって警察が機能しなくなったんだ。何をしようが誰もとがめる者はいない。

 

たくさんの軍用列車が駅に停車していたから、みんな色んなものを持って行っていたよ。貨車には靴下、洋服、皮の長靴、軍服なんかが入っていたから、中は常に人でごった返していた。俺たちは食べ物にしか興味がなかったけれど、大人は物を持って行って闇市で売って儲けた者も多かったという話だね。

その時は、金平糖の入った乾パンや、玄米を一升瓶でついて白米にしたものなんかを食べていたよ。相変わらずひもじい生活は続いていたね。

終戦後は炭鉱の景気がとてもよかった。戦争で油がなくなって、代わりに炭鉱を使っていたから。同僚の中にも、炭鉱の仕事に転職した者も多かったよ。生活費は全部面倒をみてくれるし、給料もすごくよかったからね。俺も行こうかなと思ったけれど、行かなくて正解だったな。

戦時中は採用試験に受かりさえすれば機関士になれていたんだけれど、戦後は再教育を受けることに。

 

3か月後に機関士科に行く予定だったんだけど、終戦後は規則が変わってね。戦後は朝鮮鉄道は内地の鉄道と一緒になったし、満鉄からは経歴を半分にして帰ってきた者もいて、鉄道職員が60万人もいたんだよ。おかげで早く機関士科に行きたかったんだけど、入れてもらえなくてね。機関士も機関助手も動力車になった時に給料が同じになったから、それはよかったけどね。



今と昔の両方を生きて思うことは?


「今ある一番すごいものは何だと思う?」との質問に、「俺たちは時速80キロで走っていたのに、今の列車は時速300キロで走るなんて信じられない時代になった」と。

祖父は、社内でも成績優秀だったそうで新幹線が開業時に運転士に誘われたそうです。しかし、左耳が悪くそれをかばいながら運転していたため、その悪化を恐れて断ったのだとか。

当たり前のように新幹線の走っている私たちにとって、戦争は遠い過去のことのように思えます。時を経るにつれて、戦争体験者がそれを語ることは少なくなってきています。その上で、戦時中の話を祖父から聞いたことは貴重な経験になりました。

 

いつかこの世から戦争がなくなり、平和な世界になりますように。そのために戦争を知ることは大切なことです。どうかこれが、読んでいただいた方の戦争と向き合う機会になりますように。

最後になりますが、情報の正誤性についてお詫び申し上げます。可能な限り調べたものの過去のことであり、正しい情報なのかわからない部分があります。祖父にとってはおよそ70年前の出来事で、思い違いや勘違いが多くあると思います。

 

確実に正しい情報だけを掲載すると、大幅に削除してしまうことになるため、このまま掲載させて頂くことにしました。どうかご了承いただけますよう、お願い申し上げます。

祖父から聞いた、戦争の話<前編>

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ある日近くに住んでいた従兄に、新聞に求人が載っているから応募しないか、と誘われて試験を受けに行った祖父。面接があり、機関車は好きか聞かれ「好きであります」と答えただけ。結果はなんと、誘った従兄は採用されず、祖父だけが採用。

 

せっかく採用されたのだからと、昭和19年に現在のJRのそのまた前身である「運輸通信省」で鉄道員として働くことを決めました。

 

祖父はすぐに機関士の運転をさせてもらえると思っていました。しかし、現実はそう甘くはなく、機関車の掃除ばかり。時には先輩からの悪質ないたずらもあり、肉体的にも精神的にも辛い日々が続きます。

 

もう辞めてしまいたい、と思ったことが何度もあったそうですが、せっかく入ったのだからと我慢と努力を重ね、念願だった機関士になります。

 

ちょうどこの時、日本はポツダム宣言をし戦争が始まります。これまで客車だった機関車は、軍事物資を運ぶ役割を果たさなければならなくなりました。鉄道は日本軍の支配下に置かれ、ますます厳しい環境となります。

 

祖父にも、機関車を遅らせるわけにはいかないという大きな責任がのしかかります。

太平洋戦争が始まった


(私)どうやって戦争が始まったと知ったの?


(祖父)戦争が始まったのは昭和16年12月8日のこと。後輩の兄貴が(※)「スーパー5級」というラジオを組み立てていて譲ってもらったものでよく聞いていてね。青年学校に行く前に、日本が米兵に宣戦布告したというのをラジオで聞いて知ったよ。

日本が戦争に負けるわけがないから、何とも思わなかったけれどね。当時は「米兵が日本に勝ったなら死んだ魚が動き出す。枯れ木に花が咲く」という替え歌が流行ったんだよ。

当時の天皇陛下は『現人神(あらひとがみ)』といって、神様だった。昔は、各小学校の奉安殿というところに写真が保管してあってね。祭日には校長先生がそこから写真を持って来て『教育勅語』を読んでいたよ。

 

戦争中に地元に来たこともあって見たくてたまらなかったけれど、最敬礼をしていて見られなかった。それが当然だったけれど、今思えばおかしな時代だったなあと思う部分もあるねえ。今の人には思いもよらないようなことだろうねえ。

※スーパー5級:正しくは『5級スーパー』。真空管ラジオのこと。



(私)いざ戦争が始まってからはどんな生活だったの?


(祖父)昭和18年はそうでもなかったけれど、昭和19年に入ってからは苦しかったね。物は買えないし、米を作っても食べられない。

 

早く日本が勝って戦争が終わればなあ、とずっと思っていたよ。戦時中は、日本が優勢で絶対に負けない、と常に政府に思い込まされていてね。負けそうになったら、神風が吹いて敵は降参すると言われていたんだよ。

食生活はいつもひもじくてたまらなかった。鉄道員は(※)特別加配米がもらえたから、あれでずいぶん助かったけれどね。軍用列車を遅らせるわけにいかないから、常に気を張らなければいけなかったけれど。

 

時には空襲で線路がやられて、予定の乗務員が戻って来られないこともある。いつ次の乗務をさせられるか、わからない状態なんだよ。乗務を終えて駅に戻ってきたら木の札が置いてあって、6時間経過後には、すぐ次の乗務を命じられていたね。

「鹿児島」駅の一つ手前の「竜ヶ水」駅が攻撃されて不通になり、「重富」駅から動けなくなったことがあった。その時は北海道から常駐していた兵隊が乾燥にしんがたくさんあるから、とすすめてくれてね。それを蒸気機関車の火で炙って、炊いた加配米と一緒に食べたこともあったよ。

終戦直前には、その特別加配米も少なくてね。寮での食生活はとにかくひもじかった。米粒は探さないとないほどのものに、『ふすま』を入れて炊いて食べていたよ。それと寮長が海で水をくんでそれを沸かして、摘んだ庭の新芽を入れてね。とにかく食べるものがなかったんだ。

昭和17年2月に「食料管理法」が制定され、国民は政府の指示する量の食糧しか買うことができなくなった。妊産婦、特殊な仕事に従事する者には、特別配給があった。


(私)徴兵検査は受けたの?


(祖父)俺が徴兵検査を受けたのは、昭和20年。20歳になったら受ける決まりでね。近所の人は既に志願で兵隊に行っていたよ。少年航空隊は15、16歳で志願していたね。兵隊に行けば生活費はかからず、給料がもらえるから。

 

兵隊の暮らしは裕福だったけれど、人々の暮らしは厳しかったね。兵隊たちは(※)「七つボタンは桜に錨」と歌って行進していたなあ。

検査には、甲種合格、第一予備役、第二予備役などがあって、甲種合格から順に召集令状で呼び出されていたよ。召集令状は、赤い紙に何月何日にどこに入隊と書かれていたな。

 

俺は機関車の乗務があったから、兵役は免除されて軍属配属。戦争中は、陸軍の一部の鉄道連隊が千葉から鹿児島にやってきてね。軍服を着た兵隊が列車を運転していたんだよ。

 

甲種合格の列車運転士は、鉄道連隊に一度入隊してそこからどこに行くか割り当てられてね。その鉄道連隊の兵隊に、運転の仕方を教えたこともあったな。兵隊は線路を知らないから、地元の機関助手を乗せていたんだ。

中には、ビルマやフィリピン、インドネシアなんかに行って鉄道員をしていた人もいたな。志免炭鉱に行って炭鉱を掘っていた者もいたし。

昭和18年の軍歌。「若鷲の歌」の歌詞の一部。



(私)空襲にあったときのことを教えて


(祖父)昭和19年に鹿児島の空襲があったときは、(※)グラマンが低空で飛んできて機銃掃射で撃たれたことがあったな。それとB29が油脂焼夷弾というのを落としてね。それが川に落ちたら、燃えながら流れるんだよ。火が燃え移っている人もたくさんいた。そのすべてを防空壕の中から見ていたよ。

 

空襲がおさまった後はひどい有様だった。他にも、1トン爆弾が落とされたこともあったね。その時は「鹿児島」駅構内にいた人はみんな倒れていたよ。「苦しい。助けてくれ。」と言われても何もできなかった。

亡くなった者はトラックに投げ込まれてどこかに運ばれていたし、生きているものは線路のバラス(砂利)の上に並べられていた。あの時の兵隊たちは本当にかわいそうだったね。


一度、日豊線からの到着列車と鹿児島本線の出発前列車が駅に停車しているときに、「鹿児島」駅が機銃掃射でやられたことがあった。あの時の「鹿児島」駅は負傷者でごったがえしていたよ。

 

その日の夜は「鹿児島」から「出水」までの乗務だったんだけど、列車が動かないから、コック回しと石炭をくべる片手ショベルを持って「西鹿児島」駅まで歩いて行って、乗務したよ。

空襲が始まって防空壕まで逃げている最中に、危うく大けがをしそうになったこともあったな。防空壕までが遠くてあまりにも機銃がひどいもんだから、「鹿児島」駅の裏の山の上にある多賀神社に一旦避難したんだ。偶然そこにいた兵隊と、階段で肩を並べた。あまりにも機銃がひどくて、目と耳をふさいで神社の階段に這っていたんだ。

 

おさまったら防空壕に行こうと身を潜めていたら、その時近くの川に1トン爆弾が落ちてね。その衝撃で大きな岩が階段に落ちて、俺の真横にいた兵隊の背中の上に落ちたんだ。あまりにもすごい衝撃で、兵隊も俺も階段から転げ落ちた程だよ。

 

俺は防空壕に行くためすぐに立ち上がろうとするんだけど、兵隊がズボンを握って離さなくてね。負傷して動けないから、代わりに鉄兜と剣を防空壕内の代用本部に届けてくれと言うんだ。俺は、そんなことより早く防空壕に行きたいからと困っていると、別の兵隊が来て俺を逃がしてくれた。

 

その日の夕方6時前に、その兵隊は亡くなったと聞いたよ。その日は8月で、まだ明るかったなあ。

日豊線の帰りの乗務で、霧島神宮の近くに来たときに空襲機でやられかけたこともあるよ。あそこは線路が下り坂だったから、急いで隧道(トンネル)に突っ込んだんだ。後で見たら、霧島神宮が機銃でやられてひどい有様でね。20/1000(20‰)下り勾配で加減弁満開で突っ込んだから間に合った。あと30秒遅かったら助かってなかったよ。

 

しかし、今思えばあの早さで突っ込んでよく脱線しなかったなと思うね。攻撃されたのは、アメリカ軍が停車中の回送列車を軍用列車だと勘違いしたからで、偶然通りかかった俺の列車もやられたらしい。後で見たら直接あたったところは穴が開いていたよ。あのときの薬莢をいくつか持って帰ったんだけど、どこにいったかなあ。

グラマン:アメリカの航空機メーカー。大戦中、日本ではグラマンは米国戦闘機・憎き敵機としての代名詞として呼ばれていた。

 

後編へ続きます。

オンライン語学学習のすすめ

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駅で外国人の方に道を聞かれたとき、しどろもどろになってしまって悔しい思いをしたことはありませんか?簡単な道案内ができるくらいの英語が話せればなあ、と思ったことはありませんか?そんな方には、自宅で手軽に始められるオンラインレッスンがおすすめです。

 

オンラインレッスンとは?

スカイプや専用のソフトなどを使って自宅で受けられる語学レッスンのこと。先生は一人ではなく、何人かの中から選ぶことができます。スクールによって日本語の上手な先生がいたり、ほとんど話せない先生がいたりと様々。無料体験レッスンをしている所がほとんどなので、まずは数回お試しレッスンをしてから選ぶといいでしょう。

 

オンライン英会話のメリットは?

自宅でいつでもレッスンが受けられる

これはオンラインの最大の魅力です。天気の優れない日や、暑い日差しの中わざわざ出かける必要がなく自宅で受けられるのです。レッスンが開講されている時間帯で予約がとれさえすれば、仕事の休憩時間や寝る直前にだって受けられます。

また、毎週決まった時間に受けなくてもいいので、レッスンの日にちや時間は柔軟に決められます。気が向いた時にレッスンが受けられるんです。

通学と比べて断然安い

語学を勉強しようとすると、たいていは非常に高い学費とにらめっこすることになります。しかし、オンラインレッスンはどこも通学と比べて安い。しかも、教材はオリジナルのものが用意されているか、もしくはレッスンで使う1冊のみ。通学の際には、教材の勧誘をされることもありますが、その心配もありません。

しかも、オンラインレッスンの場合はマンツーマンでのレッスンがほとんどです。通学レッスンのマンツーマンレッスンとは比べものにならないくらい安い値段で受けられます。

先生が選べる

通学の場合は、通常いつも同じ先生からレッスンを受けるのがほとんどでしょう。もし相性がいい先生ならいいのですが、途中まで受けてあんまり相性が合わないことに気づいた場合は最悪です。そのまま我慢するか、そこでレッスンを断念するしか道はありません。

その点、オンラインレッスンなら、毎回違う先生からレッスンを受けられます。もちろん、気を使って先生に断る必要などありません。勝手にこちらが別の先生を予約すればいいだけです。この先生に気を使わなくてもいいという所は、私の気に入っているポイントです。

一ヶ月単位で受けられる

通学の場合は半年か1年分をまとめて払う場合が多いでしょう。しかし、オンラインレッスンの場合は1ヶ月単位で支払うか、もしくはポイントをまとめて買うというスタイルが多いです。支払った分だけ授業を受けて、気に入らなければそれ以上続けなければいいだけです。

やめやすい

あーやっぱりもう勉強したくない、忙しいからしばらくお休みしたい、と決意して先生にやめたいですと告げるのって勇気がいりませんか?オンラインレッスンならその心配はご無用。退会ボタンをぽちっと押すだけで完了です。また戻るのも再入会の手続きをすればいいだけ。他の所を試してからやっぱりまた戻ってくるのも、全く問題ありません。

 

オンライン英会話のメリットは?

マイクを通すので発音が心配

日本語にはなかなかない発音を練習したりするときなど、やはり面と向かって教えてもらうには適わないかなという面もあります。日本語にはない英語独特の発音の時などは、なかなか難しいと感じます。

なかなか、予約がとれないことがある

先生の人数が限られているスクールの場合は、希望した日や時間がすでに埋まっていてなかなか予約がとれないことがあります。限られた時間しかレッスンが受けられない方などは、特に注意が必要です。

先生も自宅でレッスンをしているので、インターネット環境が悪いことがある

生徒も自宅なら先生も自宅。スクールによってはオフィスを設けていて、そこからレッスンを開講している所もあります。その場合はいいのですが、先生も自宅の場合は通信環境が悪く声が途切れたりしてレッスンに支障をきたすことも。夜などはインターネット回線が混み合い、重たくなることがあります。そうなると、なかなかレッスンはスムーズにはいきません。

お気に入りの先生をみつけるまでに時間がかかる

たくさんの先生が所属しているスクールの場合には、どの先生がいいのか探さなければなりません。評価システムのところがほとんどなので、評価のいい先生はいつも予約でいっぱいなことも。そうなると、予約できる先生の中から選ばなくてはいけません。予約のできる先生から選ぶしかないので、どんどんと行き当たりばったりで先生を選んでいくことになります。たまたますぐに好きな先生がみつかればいいですが、そうでない場合にはとにかく色んな先生のレッスンを受けていかなければなりません。これがなかなか時間がかかります。

まとめ

やはり、オンライン学習の最大のメリットはその価格です。とにかく安く手軽に始められるので、まずは体験レッスンをしてみて、それからやっていけそうだったら1ヶ月やってみる。その後また1ヶ月、と短いスパンで考えていけるのでとっても始めやすいです。善は急げ。とにかくやってみてください。便利な時代になったな、と実感するはずですよ。

イノベーティブ料理を模索し続けている、フレンチシェフのお話

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広島市中区にあるフランス料理のお店「Les Ambassadeurs (レ・ザンバサドール)」のシェフ、中土征爾さんにお話を伺いました。中土さんと知り合ったのは、日本酒ナビゲーターの資格をとりに行った際にご一緒させて頂いたのがきっかけ。ワインや料理全般に対する知識が深く、愛を持たれているのだなという気持ちが終始、じわじわと伝わってきました。また、取材をこころよく引き受けてくださったことに感謝すると共に、何でも質問に答えてくださるお人柄の良さに助けて頂いたなと、心から感じています。

お味噌汁をほめられたのがうれしかった、子供時代

中土さんが料理に目覚めたのは幼少の頃。ご両親が共働きで多忙だったことで、代わりにお味噌汁などの簡単な食事を作ってみたところ家族からほめられ、そこから料理が好きになったそう。ここから料理の道を目指すぞとなったわけではないものの、これが大きなきっかけになったそうです。

お味噌汁から、フレンチに?

ご家族にほめられたのをきっかけに、料理の楽しさに目覚めた中土さん。和食ではなくフレンチのシェフとしてお仕事をされるきっかけは、料理学校で全ての料理を勉強した後に、一番わからなかったのがフレンチだったから。知らないことを知る喜びに目覚め、フランス料理を選ばれたのだとか。また、もう一つの理由はワインが好きだったこと。ワインと和食はなかなか合いにくい組み合わせがあり、やはりワインならフランス料理だなという結論に至ったそう。ちなみに、当時ちまたで売られていたワインはあまり美味しくないものばかり。もっと美味しいワインを飲めるようにならないか、という気持ちも料理人を目指す気持ちに一役買ったのだとか。

お店の名前はどうやって決めた?

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お店の名前はフランス語で「大使」という意味。フランスのホテルドクリヨンの中にある二つ星レストランのお店と同じ名前だそうで、そこにいらっしゃった方に命名して頂いたのだとか。本当はもう少し覚えてもらいやすいお店の名前が良くて、「『シェ・ナカド』か『レストラン・ナカド』かな~と言われていました。「でも自分の名前をつけちゃうと僕がずっといないといけないからな・・・。」と。

いやいや、でも飲食店の大変さは少し様子を覗かせて頂いただけでひしひしと感じましたよ。ちなみに、とってもかわいい奥様が一緒に働かれているのですが、すごく華奢なのにきびきびと動かれていて、心底感心してしまいました。

お店のこだわりや自慢は?

食材を大切にしつつも、どうすれば独創的でイノベーティブなメニューになるのか。美味しいのは当たり前で、驚きと感動を食べてもらう人にどう与えるか。中土さんはこのことをいつも意識して、ちょっと変わったことをしようと挑戦されているそうです。

 

お店の自慢の料理はこちら(写真はお借りしました)

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ちょっと変わったことをしたいと言われていた通り、こちらはパスタにしか見えませんよね。実際は「水イカのカルボナーラ仕立て」。フォークでクルクルまこうとするお客様を見て、シェフはにんまりされているのだとか。

フランス料理の難しいところは?

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こういうものがフランス料理というイメージがすでにあるため、創作した料理を出すとこれ和食でしょ、これイタリアンでしょと言われてしまうことも。どうしても、日本の食材は和食に合うなと感じることがあり、日本の食材をいかにフランス料理に調理するかが課題なんだとか。以前、1年ほど和食を作られていたこともあるそうで余計にそのことを感じられるそう。

なんでもフランス料理の原点は、保存状態の悪い素材に濃い味のソースをかけて食材の味を消してしまおうというもの。そのため、フランスで習ったことをそのまま再現しようとすると素材を生かす料理は作れない。日本の食材は繊細で悪くいえば水っぽいものが多く、フランスのものに比べると旨みが少ない。そのため、濃いソースをかけると食材が死んでしまう。本来の作り方とは少し違う、素材の生きたフランス料理を作るということに、また難しさを感じておられるそうです。

なるほど。確かに、食べる人の気持ちや素材の違いを受け入れながら料理を作るのって、難しそう。日本とフランスの違いをも、それと同時に受け入れなければいけないということですね。フレンチのシェフって日本にフランス料理や文化の橋渡しをするまさに「大使」なんですね。

楽しいときと困ったときのエピソードを聞かせてください

味見して美味しくできた!と思ったとき。お客様が楽しそうにお食事をされている様子をみたときと、美味しいと言ってもらえたとき。

やはり、美味しい料理が完成してそれで喜んでもらえたら、料理人冥利につきますよね。

食材が台風や発注間違えで届かないときには、料理人の無力さを感じます。料理人は食材がなければどうにもならない。もうそういうときは走り回って食材をかき集めますけどね、とのこと。

やはり料理のもとでもある材料は、料理人にとって要ですね。

レストランをオープンしてすぐのときは、知名度が低くなかなかお客様が来てくれない。そこで、フランス料理は手軽に食べるものではないという一般的な意識を払拭しようと、仕掛けを試みてみた中土さん。その結果わかったのが、実はフランス料理には特別さを求めている人が多いということ。そこからは、特別な料理を提供して、特別な気分で食べてもらい、今日は特別な日だったからという気持ちで帰ってもらおうという「肩肘張って来て下さい」のスタンスに変更。その後、お店は着々と軌道にのったのだとか。

広島だからこそできるフレンチを、県外の方にも是非食べて頂きたい

瀬戸内海の魚介類や中国山地の野菜をベースに使って料理をすることを意識されている、広島っ子の中土さん。広島の良さを知るきっかけとして、県外の方にもお店に足を運んでもらいたいと思われているそう。

 

広島の食材をフレンチに変身させた、イノベーティブ料理に日々挑戦されているのですね。

中土さんは、料理人魂をいたるところから感じる方

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ランチとディナーの間のアイドルタイムに時間を割いて頂きお話をお伺いさせて頂きました。仕込み作業をしながらの取材だったのですが、オーブンの音が何度も鳴り響きます。その音はパンが焼けた合図。なんと、お店でパンも焼かれているのです。

これだけ毎日のように料理をされていて、普段もされることはありますかとお伺いしたところ、得意料理は「マーボー豆腐」だそう。思わず笑ってしまいましたが、これめちゃくちゃ気になりますよね。さすがにお店で出すのは難しそうですが、身内だけのマーボー豆腐の会を今度しようかなと考えられているそう。フレンチシェフの作るマーボー豆腐、是非食べてみたいですね。

得意料理に中華料理が出るところなど、フレンチのシェフとしてはもちろん、人としての楽しさもしっかりと持ち合わせておられる中土さん。仕込み作業の手際の良さを眺めながら伺ったお話は楽しくて、あれも聞けばよかったこれも聞けばよかったと帰ってきてから思ったほど。今度はお客さんの少なそうな日を狙って、カウンターで料理を頂きながらまたお話の続きを伺いに行こうかなとたくらみ中です。

犬山紙子さんの「上司、同僚、後輩~やらかし男子との付き合い方~」

先日、RCC文化センターで行われた、コラムニスト・エッセイストの犬山紙子さんによるトークショーがあると聞きつけ、行ってまいりましたのでその様子をレポートにまとめました。

犬山紙子さんとは?

犬山さんは、コラムニスト、エッセイストであり、テレビにも出演するタレントでもあります。仙台の出版社での編集者を経て家庭の事情で退職。その後6年間のニート生活を送り、毎晩飲み歩いていた際に出会った美人アラサー女子たちの恋愛事情をブログに書き始め、それがツイッターで広まり出版へとつながります。犬山さん独特の毒舌が女性からの共感を得て、話題に。最近のプライベートで一番楽しいことはおじさま方とするボードゲームだそう。

最新作は2017年6月に出版された「私、子ども欲しいかもしれない。」。2017年1月に出産されるまでの出産への迷いとその思いをつづられたエッセイです。

犬山さんの語る、「やらかし男子」とは?

ある程度年齢を重ねた人であれば、いるいるー!と思わずうなずいてしまう「やらかし男子」たち。本人はやらかしちゃってる自覚は全くないのがまたやらかしだと私は思います。

ちなみにこれ、「男子」となっていますが、犬山さんも言われていた通り「男子」だけでなく「やらかし女子」の場合も。

思わずうなずく「やらかし」の例を挙げ、どうやったらこの「やらかし」をする人たちに対処する?という話につながります。

「やらかし」への対処はどうしたらいい?

犬山さんがいわれていたのは、「セカンドオピニオンをつくること」 。組織の中にいると、その人だけの意見にとらわれがち。だけど、実際にそれって本当に正しいことなのかを見極めるためにも、味方や信頼できる人をつくることが大切ということを言われていました。そうはいうものの、小さな会社だったりすると難しいですよね。

社会人経験の大切さ

 私がふと不思議に思ったのは、犬山さんってフリーランスなのに会社員の悩みあるあるみたいなことを言われているな、ということ。調べてみると出版社に勤務されていたご経験があるとのこと。その時のことをもとに話をされているんだなあと納得しました。

さて、私にも短いですが会社勤めの経験があります。犬山さんがしきりに言われている「やらかし」に遭遇して、もう頭がおかしくなりそうになったこともありました。どんどん追い詰められていっていたし、今思い出しても本当に辛く二度と戻りたいとは思いません。でも、その二度と戻りたくない環境に自分がいた経験というのは今思えば経験できてよかったなと思うこともあります。それだけではありませんが、この犬山さんの話は一度も会社勤めの経験のない人にとってはあまり共感できない内容だったと思うからです。

今の仕事を好きになっていい 

多分またどこかで「やらかし男子」と出会うこともきっとあるだろうなと思います。犬山さんの話を聞いている間中ずっと以前の職場の上司と同僚の顔が目の前にちらついていました。あの時のことを思い出してため息が出そうになりましたが、しかし!私はその人たちにはもう二度と会わなくていいし、私は自分の仕事を自分で選べるし、(もちろんクライアントさんの意向にそうとかそういうのは前提として)自分が好きなようにして許されるんだという、当たり前のことを再確認してうれしくなりました。そして、もっとがんばってもいいんだなという勇気が湧きました。

これからも邁進していく所存ですので、皆様どうかよろしくお願いいたします。